橋の名は。物語 六五郎橋

六五郎橋

・福岡県久留米市~佐賀県神埼市  ・県道15号線  ・筑後川

  六五郎橋は、橋長450m・幅員6mの鋼トラス橋で、1966年(昭和41年)に竣工している。

 

  「橋の名は。」ちょっと変わってて2人の名を合成した「六五朗橋」と言う。

  天正13年(1585年)、今から430年ばかり前の物語です。この辺一帯を治めていた西牟田 家周(ニシムタ イエチカ)が、豊後の大友宗麟の攻撃に備えて急いで城島の地に城を築くことになったが、来る日も来る日も大雨で工事がはかどらず困りはてていた。水辺に祀る水神様にお願いすると、神主の話では「人柱を立てよ」とのこと。そこで人柱を立てることになり、築城をまかされていた庄屋の楢崎六左衛門は、民百姓とその家族を救うため白装束を身にまとい工事現場に向かった。

  「お待ち下さい旦那様。私めに事情をお話し下さい」。六左衛門の前に立ちふさがったのは、「平」であった。「赤子のとき捨てられていた俺ば拾うてここまで育ててくださった大恩人じゃなかですか、俺に身代わりになって死んでくれと、なぜ言ってくれんとですか?」と     


大声で泣き出した。

  「まー待て吾平、そちはまだ若い。これから世のため人のためやらねばならぬことが山ほどある。それに比べ、わしは老いぼれてしもうた。やれることも限られとる。こういう時こそ役にたたねば何のための命ぞ。」

 

  一夜明けた翌日、嘘のように空は晴れわたり、筑後川の水嵩も減った。庄屋の六左衛門が人柱となり、捨て子であったが六左衛門に育てられた吾平はあとを追っていた。この後、大雨が降ることもなく工事も順調に進み、奇跡的に大友勢が攻めてくる前に城は完成し、大友宗麟の攻撃にも城島城は落ちることなく、この村を守ることができた。

 

  六左衛門・吾平さんのおかげで城も村も助かったと村人は祠を造り丁寧に祀りました。そして2人の遺徳を後生に伝えるため、昭和になって出来た橋に「六五郎橋」と名付けました。



by 字っ茶1

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コメント: 3
  • #1

    橋っ娘 (火曜日, 24 10月 2017 22:47)

    いつも楽しく拝見しております‼

    今回の六五郎橋、、、
    エピソードがとても悲しいですね(T_T)
    430年前の日本では、そのような事がよくあったのでしょうね、、

    感動しました。

  • #2

    字っ茶1 (木曜日, 26 10月 2017 07:33)

    橋の名は。・・・の由来には、悲しく涙するようなのが多いですネ!。
    まだまだ出て来ます。おたのしみに・!・!!!!!。

  • #3

    大刀洗郷土史マン (火曜日, 08 12月 2020 16:44)

    世の中の大事な時に命を懸けて行動できる六左衛門さんも五平さんもすごい人ですね。今の政治家さんたちはこの行動ができるのでしょうか。コロナ渦で特定の会社を優遇するなどしているようでは、この物語を総理に送ってや痛いですね。